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2025/08/14 神港園サニーライフ白川
妙法寺クリニック通信4月号
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【院長からのメッセージ:4月号より】
神港園妙法寺クリニックです。
開院からはや4か月が経ち、地域の皆さまに支えられていることに心から感謝申し上げます。
今回は、開院当初の想いをまとめた院長からのメッセージを改めてお届けします。
院長の、医師としての歩みの原点となった阪神淡路大震災での経験、皆さまの健康を守りたいという強い思いを込めておりますので、ぜひご一読いただけると嬉しいです。
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新聞記事の内容が小さいので、以下に全文を記載します。
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「満足に治療ができなかったら、その分これから取り戻せばいいじゃないか」
阪神淡路大震災当時、5階部分がおしつぶれ被災の象徴的な建物にもなった神戸市長田区の市立西市民病院に勤務。
だがライフラインが停止した病院は無力だった。
震災直後、中学時代の恩師から受けたアドバイスが8年半を経た今も頭に焼き付いている。
同病院で、研修医時代の1年間と87年から震災があった95年までを過ごした。
震災の翌日、須磨区の自宅から高取山を超えて病院に駆けつけると、見慣れた病院の姿は一変。
ぼう然と立ち尽くした。5、6階は内科患者の病棟で、自分の患者も生き埋めになっていた。
外来患者も押し寄せた。受付ロビーで懐中電灯を片手に診察した。夜は手術室に泊まった。
薬こそ救援物資で足りたものの、水がなく手術ができない。さらに余震のたびに建物は傾いた。
外来の重症患者、入院患者の転院手続きに追われた。
1週間後。新聞の死者一覧には自分の患者が20人以上いた。
「医者でも救えない命もあるのか」。無力感が重なった。
だが、それも他の病院や保健所などで目の前の患者を診ると忘れられた。
95年4月、神戸赤十字病院に移籍。今年8月、同病院はHAT神戸(東部新都心)に病床を拡大して移転した。
県災害医療センターに隣接し、災害発生時には同センターと協力し、負傷者の治療にあたる。
震災直後。被災者の間で「淵の疫病がまん延する」とデマが流れた。
「情報が少ないことによるパニックだった」と振り返る。
また、震災直後、入院患者を店員させることが多かったことから、
病院間で情報を共有することの重要さは身に染みている。
「また災害が起こった時には教訓を生かし、治療にあたりたい」
高井さんの表情に決意がにじんだ。
メモ
神戸赤十字病院検査部長兼内科副部長。西市民病院時代に診察した患者が、今も頼ってくれるのが何よりの喜び。大阪医科大卒。
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